お天気の日の夕方、芦ノ湖のまわりを散歩した。
元箱根港というバス停で降りて、箱根神社まで歩く、湖畔沿いの遊歩道が好き。

深夜から早朝にかけて日本を荒らした大きな台風の面影はすっかり消え落ちて、湖は夕焼けに輝いていた。

10月も後半となると、このあたりはしんと寒くなる。
箱根がいくら東京から近い観光地といえど、油断はできない。
寒がりの私は、裏起毛のパーカーとタイツに、秋らしいミモレ丈のスカートを合わせた。

ときおり風が吹くと、袖や首回りからひんやりとした空気が入ってくる。
その冷気に「うう、寒い」とぼやくところまでが、秋の始まりのお楽しみだ。

突然の告白だが、私は夕方の光がなにより好きだ。

柔らかくて、暖かくて、少しさみしい。
そんな夕陽にふんわりと包まれながら散歩するのはとても心地がいい。

もし自慢の白い肌を焼かれてしまうのならば、昼のかんかん照りの光ではなく、夕方のやさしい光にじんわりと焼かれたいと思うくらいだ。

今の仕事をしていると、夕方の存在を肌では感じられない。
だからこそ、休日のそれは一等美しくみえるのかもしれない。

話が変わるけれど、観光地の湖の周りは、だいたいちょっと寂れている。
しかし、芦ノ湖の寂れ方は、他とは少し違うんじゃないかと考える時がある。

芦ノ湖は、自然のもたらす活力があまりに大きいから、その対比によって周りが寂れてみえるのではないかと。とりわけ箱根神社に近づくほど、空気は厳かで、冷ややかになっていく。

そんな空気の中を歩いていくと、台風で倒れた木が私たちの進路を塞いでいた。その雰囲気はなんだか物々しくて、前へ進むために木の下をくぐるのにも少し緊張してしまう。

不気味に暗い森の中、ふと木々の隙間から芦ノ湖に目をやると、水面でちらちらと揺れる、まばゆい光が視界に飛び込む。

森の遊歩道から眺める芦ノ湖は、いつだって私を癒してくれた。それは今日だって変わらない。

18歳のころ、芦ノ湖を見渡せるワンルームに住まわせてもらいながら、近くのレストランで働いていた。
気持ちがふさぐときも、この遊歩道から静かな湖をぼんやりと眺めていると、湖の中に心のわだかまりがすーっと溶けていくような気がしたものだ。

悲しい日だけではなく、とってもいい気分の日だって、ドビュッシーを聴きつつ紅茶と本を両手に、芦ノ湖の見える穏やかな時間を過ごすのが日課だった。

どんなに美しい観光地でも住んでしまえば魅力的に見えなくなると、多くの先輩や同僚に聞いた。けれども、私はそう思わなかったことは確かだ。

日々を幸せにしてくれる、きれいで大きな水溜りのそばで暮らせるなんて!その一年弱、私は一日一日を噛みしめるように生きていたのだ。

ゆっくり、ゆっくり逍遥していると、ここでの生活から産み落とされたたくさんの思い出が、自分自身、追いつけないくらいに脳裏をよぎる。

足元を見れば、そこらじゅうに秋の息吹が落ちている。

秋がまだか、まだかと囁きかける、
私はその声を踏みふみ歩く。

植物たちは自らを暖かい色に染めていく。
秋はもう始まっているのだ。

人々もそれに合わせ、紅葉のように深い赤や、苔色、辛子色の服で装うようになる。
春と夏は、植物と人間の装いがばらばらなのに、秋になると両者の間に調和がもたらされる。そのようすを観察していると面白いし、なにより私も、秋色を身に纏うのが大好きだ。

ことしの秋は、着心地のいいケーブル編みのニットセーターがほしいな、なんて少し欲ばりな気持ちが芽生えた。

もう少し日が暮れると、空は何色もの色が混じり合ってグラデーションを描き、そこには可愛らしく白いお月様がちょこん、と寄り添っていた。

久しぶりに歩いた芦ノ湖で、天気の変わりやすいこの場所で、そうっと息をのみこんでしまうほど美しい夕暮れを見られたことに、私はありったけの感謝をした。

ありがとう、また来ます。
世界で一番お気に入りのベンチにも挨拶をする。

今度は小さな美術館と、お気に入りの紅茶屋さんへ寄って、心が贅沢をする一日にしよう。頭の中で次の湖畔散歩を思い浮かべた。

そのときも、芦ノ湖は変わらずに私を迎えてくれるのだろう。

それでは今日は、おやすみなさい。
そうつぶやき、私は暗い森を抜けていった。

この記事は、かつて私が運営していたTHINKING REEDというブログからmelassic.comへ移行した記事です。

Author

Write A Comment

Pin It