今日はファッションのお話。

ファッションが好きなのにオシャレじゃないことへのコンプレックス

私は生まれついてから今まで服が大好きで、小学生の頃にはすでに友人を服屋に連れ回したり、ティーン以上向けのファッション誌を読んだりしていました。しかし今でもファッションセンスに全く自信がありません。

「オシャレだね〜」って言われた記憶がそんなにないのが、その証拠だと思います。「いつもちゃんとした服着てるね〜」とかは、言われるんだけど。
欲深いですけれどもやっぱり服が好きである以上、いつかは「いつもオシャレですね」と、陰で言われる人になりたいです。

ファッション業界に少し関わってやっと得た知見

去年からは小柄向け最強ブランドCara by Katrin TOKYOで幸運にもインスタライバーとして採用していただき、ファッションについて、改めて学び直そうという機会を得ました。ディレクター(@sawa_daigo)もスタッフさんも皆ファッションの知識だったりセンスの蓄積が一般ピープルとはケタ違いで、撮影やライブに参加するたびにこっそり学びを得て帰っています。ありがたし。

今までは「かわいい!」「これは!」と思った瞬間に衝動的に服を買っていたのですが、一つ一つは可愛くても組み合わせが全然できないワードローブが着々と完成していき、、、
ファッションピープルを目指すには、私のとても苦手な”好みを絞る”だとか、”統一感を持たせる”という作業が必要なのだなと実感しました。

統一感なんてブルシット!と思っていましたが、よほどの富豪でもない限り、ファッションに関してはグッとこらえて統一感を意識していた方があらゆる点で便利でしょう。

今年じっくり磨いていきたいセンスは…

それで今日は何を書きたかったかというと、

「小物使いがうまいファッションピープルになりたい」

という願望です。

小物というのは色々ありますね。アクセサリーのような細かいところから、靴、カバン、スカーフ等の巻き物だったりと、面積が大きい部分を担う洋服より、それを引き立てる役目に回る物たちです。

衣服は本質的に人間に必要なものです。どんなにオシャレ欲のない人間でも、クローゼットなしの四畳半で暮らすミニマリストでも、服を着なければ社会的にアウトです。
しかし、小物は突き詰めると、なくても生きていけます。

だから、なのかもしれません。

「小物の達人」というのは、明らかにずば抜けてオシャレなオーラを放つと思うのです。必要ないと思われがちだからこそ、誰しもが上達できることではないからです。

今年は小物を研究しまくるぞ

今まで靴やカバンの小物選びは本当にテキトーで、「高級ブランド物に興味がない」とクールぶって、選ぶことを放棄してきました。かわいい服だけガチャガチャと買って満足。その結果なぜか家にはトートバッグしかない。品のいい服を着てもトートバッグじゃ、そりゃちぐはぐだ。

もちろん経済力の少ない私が、オシャレになりたいからといってハイブランドを無理して買う必要はまったくありません。けれど、今後は意識をしていきたい。安価なものだとしても、小物選びにこだわること。

とはいえ小物は安いものを大量に買うより、質の高いものをじっくり探す方が長い目で見たときにはお得なんだと思っています。
本当にいいつくりの小物は、失くさない限りは、一生物と呼べるジャンルが多いのではないかと感じます。だからコツコツ、じっくり、長い目で見ても統一感が出るように目を肥やして、いいものを買い揃えていきたいです。

昨今脚光を浴びる、サステナブルという概念もあります。これも結局、大量に消費しているだけの姿勢を見直し、質の高い品物を長く使う姿勢に皆が切り替えれば、世界的に見てもかなり捗るのではないかと。

散らかってきたのでまとめると、自分の好きなオシャレを追求し、特に今年はゼロに等しい小物使いのスキルを高めることに凝りたいです。

ファッションの知識は人生をより楽しむための、一生物の知恵だと思います。

このブログでも、ちょくちょくファッションの投稿もしていきます。

この文章は、自身の言葉や思考のツールとしての”アナログ”と”デジタル”をどう使い分けるかに頭を悩ます人間の、自由研究のまえがきである。

五年くらい前まで、私は物凄い勢いで紙に文章を書きつける人間だった。
今は違う。利便性での慣れか、ほぼ全ての事柄についてデジタルでメモをするようになったし、そもそも日常的に文章を書いたり、頭の中にある言葉や概念をアウトプットして整理する機会はぐっと減ってしまった。

今になって、当時の自分が書いていたノートやら日記やらを読み返してみると、過去の自分に嫉妬心が湧いてくる。
苦悶しながらも、実にじっくりと物事を捉え、疑問を起こし、考えているのだ。

私は今、2021年に生きる身として、デジタルとアナログの使い分けについて真剣に考えを巡らせている。
キーボードと万年筆、画面と紙を往復しながらさまざま手を動かしてみると、これはもう論拠もない肌感覚でしかないが、「デジタル化」を全て善、「旧時代の産物・アナログ」は悪、と捉えるのは、どうにも違うのではないかと思うのだ。(この対立構造でアナログツールを排除し、デジタルツールのみを用いる人が周りに少なくない。そして私も、そうなりつつあった)

キーボードと画面を用いた際に出力される言葉と、紙とペンを用いた際に出力される言葉には、その「広がり方」というきわめて重要な点でも、「記録のなされ方」「追記のされ方」「取り出し方」「保存・分類のされ方」というようないくつかの点でも、異なる性質を持っている。(これは自分でも手を動かしてまとめあげなければならない)

同じ出発点で何かを考え始めても、紙-ペンで広げるのと、メモアプリ-キーボードで広げるのでは、まったく異なる結論に行き着く可能性があると感じている。

もちろんこの話は思考や記録の”ツール”の話であって”目的”の話ではない。だからこのことばかりを考え、肝心の中身をすっぽかしていてはラチが明かない。
ただし同じ卵を調理するにもフライパンを使うか電子レンジを使うかで完成される料理が違うように、使う道具によって材料が大きな制約を受けるということもまた一つの事実である。

とにかくもう一度、今自分が勉強している内容や考えている事柄をどう記録・整理したらもっと世界が面白くなるのか、ということを自由研究しようと決意したのだ。

デジタルを使わずしてアナログに固執するのも情緒的であるに過ぎず、アナログを軽視してデジタルのみに走るのも妄信的である。そう思うからこそ、真剣にアナログvsデジタルの比較検討をして自分なりの落としどころを探っていきたい。
Z世代である我々は、教育においてデジタルツールもアナログツールもどちらも用いており、ちょうどその転換期を目の当たりにしている世代である。

どちらも使っている上で、デジタルに強いといわれる我々世代がこの件について考えてみることは、きっと世の中の誰かの役に立つことだろう。

こんな状況でリモートワークも進み、デジタルの利点も弱点もさまざまな場所で活発に語られているし、情報収集はたやすいはずだ。

さて、どうなることやら。

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