ある日ふと、自分には友人がいないということに気づくときがある。
 

仕事をしていれば他人と話す機会が増え、連絡先を交換することだってある。

そのまま一緒に食事へ行くことだってある。

それでも、彼らは友人という存在までは行かずに、いつかは連絡を絶ってしまうことがしばしばだ。

そんなことを繰り返しているのに、友人のいない自分に気づいた瞬間は少しさみしい。

 
ある昼下がり、秋めいてきた肌寒い庭園を歩いていると、ふとお決まりの寂寥感に駆られた。

自分に友人ができない理由を考えながら歩き続けた。

 
庭園の中には小さな喜びがいくつも転がっている。

たった一枚、はらりと落ちた枯葉の輝き。
昼の強い日射しを受けて、宝石よりも眩ゆい蜘蛛の巣。

岩から湧き出るお湯の、ひかえめに流れゆく音。
視界に入りきらないほど赤い実を宿した南天の鮮やかさ。

五感を撫でる風景に、いちいち心をさらわれてしまう。

 
私と同じような感覚を持った人と、一緒にここを歩きたい。
そのときはっきりと、そう思ったことを覚えている。

それは自分に友人がいない理由への鍵でもあった。

 
私が好きになる人は、趣味が似ているとかどうとかの話ではなくなってきていて、“身近なものを慈しめるかどうか”という、感性の話になってくる。

一緒になんでもない落ち葉や水たまりや木漏れ日を眺めていたら、いつの間にか時が経っているような、そんな友人がほしい。

言葉で折り合いをつけられることは往々にしてあるけども、感じ方についてはなんらかの積み重ねであるから、すぐにすり寄れるものではない。

 
友人がいないことに寂しさを感じていたが、働くことでたくさんの人と触れ合っていると、私と同じような感覚を持った人はほぼ存在しないも同然だとわかってしまった。

 
それなら、もう仕切り直して一人の時間を思い切り楽しんでしまおうではないか。
そうして感性を広げていけば、そのときまた出会うべき人と出会うだろう。

その日思ったことをノートに書き留めると、私はまた感性を磨く長旅へと戻っていった。

この記事は、かつて私が運営していたTHINKING REEDというブログからmelassic.comへ移行した記事です。

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